企業経営
〜 消滅した会社から学ぶ 〜
Kiyomi Tabuki
■ まえがき
このページは、消滅した会社の消滅原因を研究し、経営において類似の失敗を避けるのに資することを目的に執筆したものである。
昔、NEREC という会社があった。 NEC の分身会社だった。 分身会社とは NEC 特有のコンセプトを伴った子会社のことである。 NEREC
の日本語名は日本電気電波機器エンジニアリング株式会社、NEC RADIO EQUIPMENT COMPANYの略。この会社は今はもう無い。 NEREC あるいは日本電気電波機器エンジニアリングをネット検索すると、若干の残骸が過去の記憶を微かに留めているだけである。
私は、昔、この NEREC の技術者だった。 NEREC では社内恋愛もした。 まさに青春の1ページであり、消えて無くなったことは非常に悲しい。
しかし、同時に、今は翻訳会社の経営者である私としては、この NEREC の末路は、自社の経営を考えるときに大きな示唆を与えてくれる。
私の経験を公開すれば、より良い経営を目指す後輩諸兄に有益だと考え、ここにとりまとめることとした。 ご愛読いただけたら幸いである。
■ NEREC の魅力に惹かれ入社
中学時代、電子回路という「からくり」や無線という「魔法」にとりつかれた私は電気関係の技術者を志した。 そして、工業高等専門学校(工業高専)に進学した。
そして、卒業の昭和58年(1983年)、私はこの NEREC という会社に入社した。 もちろん技術者として活躍するためだ。
NEREC という会社は、NEC が 100% 出資して設立された子会社で、防衛関連機器を取り扱っていた。 防衛関連機器は技術的に「何か凄そう」だと感じさせるものがある。
技術者にとって、とても魅力的だ。 それに、当時 NEREC は整備業務が主体だったが、将来的には設計業務まで本格的にやるという方向性を持っていた。
少なくとも、私が入社の面接を受けた当時の NEREC の役員は NEREC で設計まで本格的に行えるようにするというマイルストーン計画を描いていたことは間違いないと思われる。
そもそも、NEREC は NEC の 「分身会社」 というカテゴリーの会社であり、NEC とは対等の専門会社とされていた。 NEC はジェネラリスト集団として全体をまとめるような横方向に広い仕事を行い、NEREC
のような分身会社はスペシャリスト集団として縦方向に深い専門的な仕事を行うことで、全体としては縦糸と横糸が織り合わさった布の如く面積を持つ、つまりカバレッジ・エリアの広いビジネスが行えるようにするという考え方の上に成り立っているので、横糸である
NEC と縦糸である NEREC のような分身会社は同等の強度を持たなければ理想の布は織り上げられないのであって、お互いにレスペクトしながら対等の立場で仕事をしなければならない訳だ。
そういう前提でいけば、NEREC が成長するにつれ専門性が高まり、設計業務についても次第に NEC から NEREC に移管されていくのは自然な流れであり、当然、そこでは技術者の私が活躍できる余地は非常に広いということになる。
しかも世界的な大企業である NEC の子会社であるため資金も豊富というイメージがあったので、凄い装置の設計にもチャレンジできそうだった。 また、待遇面も
NECのプロパー技術者と全く同じにするということも約束され、その点でも明るい未来展望が描けた。 今思うと、本当にあの頃は「夢」があったと思う。
ちなみに、NECに入社しようと思えば入社できないこともなかったとは思うが、当時の私は、自動車関係の大会社に努めていた父親を見て大企業よりも中小企業の方が自分のやりたい仕事ができると感じていたから、あえて
NEC への入社は志さなかった。 他の大企業からの誘いも乗り気になれなかった。 一方、NEREC というのは、そのような私にとってピッタリ・サイズのように感じられたし、専門的な仕事が出来る
NEREC には非常に惹かれるものがあった。 他の企業に比べて動きが速かったのも印象的だった。 面接に行って役員が即断即決で採用内定を出してくれた。
そのスピード感は素晴らしいと思った。
それに決定打だったのは、当時社長だった奥山さんの評判がすこぶる良かったことだ。 社外の人からも奥山さんの良い評判を聞く状態だった。 そのような人が社長の会社なら入ってみたいと思い、他社の誘いを蹴って NEREC に入社したのだった。
■ 確かに優良企業だった NEREC
そんなこんなで NEREC に入社したのだが、確かに NEREC は思ったとおり素晴らしい会社だった。 技術者として活躍できるチャンスも多かったし、奥山さんも評判通り社員思いの素晴らしい社長だった。
同期入社の社員を含め、私が入社した当時の NEREC には優秀な人が多かった。 社内の活気もあった。
特に、技術者として活躍できるチャンスであるが、これは大胆な形で入社早々与えられた。 入社早々、嘱託社員・出向社員として NEC の技術部に送り込まれ、NEC の技術者として仕事をすることとなったのだ。 つまり、そうすれば NEC での技術者としての活動の中で技術習得が可能で、その技術を NEREC に持ち帰れば NEREC の技術レベルがアップするという訳だ。 ということで、皮肉にも、どちらかと言うと避けていた大企業での技術者ライフがスタートした。
NECでは、NEC のプロパー社員と何も変わらない待遇を受け、NEC の技術者として仕事をこなした。 名刺も NEC の社員としてのものだったし、仕事も与えられたプロジェクトの中核的な技術者としてバリバリやっていたので、取引先の人間は誰一人として私が
NEREC から送り込まれた人間だとは気が付かなかった。 それに、海外に出張しての技術習得というような非常に重要な任務まで任された。
防衛関連機器は、海外で設計・製造されており、運用実績があるものを国内でライセンス生産する 「ライセンス国産」 が良く行われる。 このライセンス国産において、技術者は、海外の図面や仕様書などを翻訳したり、長さをインチからミリに換算したりし、それに基づいて様々な手配・指示を行うということを、大きな任務の1つとして行うわけだが、それだけでは不具合に対応できないため、るよう、技術者は動作原理や回路動作などの技術的知識も修得しなければならない。
それ故、技術者は海外のライセンサー側の会社に出張して教育を受けることとなる。 直接的にはそのような知識の移転ということがあるが、それだけではなく、この教育では長期間、海外のライセンサー側の会社の人達と一緒にいるため、友好関係が深まり、プロジェクトがスムーズに進むという間接的な意義もある。
そのような非常に重要な任務まで任された。
入社8年目で NEC の肩書上でも主任となり、もう、その段階では、NEREC の人間というよりは、実質的に NEC の人間になってしまっていたが、いずれにせよ、私は技術者として、しかも国際的な舞台で活躍するスーパー・エンジニアとして活躍させていただいた訳で、私が入社の面接を受けた当時の
NEREC の役員が言っていた NEREC で技術開発まで行えるようにするということは真実だったと思うし、大枠ではそういう方向で向かっていたのではないかと思われる。
それと、奥山さんが評判通り社員思いの素晴らしい社長だった件。 奥山社長は、既に相当の社員がいたにも関わらず、社長室に全社員の写真を貼り全社員に心を配っていた。
給料明細には毎回欠かさずメッセージが添えられていた。社員もやる気に燃えていた。先輩も一生懸命後輩に仕事を教えていた。素晴らしい会社だった。
■ NEREC における異変
だが、残念なことに、NEREC はある時期から次第に腐っていく。 その「ある時期」とは、奥山社長が退任した時期に重なる。
私は、NEREC の経営に関する舞台裏を知る立場には無かったので、何がどうしてどうなったのかは不明なのだが、奥山社長が退任し、その後、NEC から NEREC に社長が送り込まれてきた。 しかし、新しく送り込まれた社長からは奥山社長のような熱意は感じられなかった。 社長だけではない、NEC の余剰人員が NEREC に送り込まれるような色合いが強くなっていった。 そのようにして NEREC に送り込まれる人の多くは「良い人」ではあるが、いかんせん年齢が高いため行動力に乏しく、NEC から左遷されたような格好なので熱意も無く、与えられた仕事をとりあえず処理すると言ったような感じだった。
また、そのようにして NEC から管理職が NEREC に送り込まれる結果、NEREC の生え抜きの昇進の機会がどんどん奪われていった。
そのようなことが進行するにつれ、NEREC 生え抜きのやる気のある技術者がどんどん会社を辞めていったのである。 私が入社した当時、いっぱいいた優秀な人が、櫛の歯が欠けるかの如く、ボロボロと他の会社へと転職していった。
僕より一足早く NEC に送り込まれ、後輩である僕のことを本当に良くしてくれた、僕にとって恩師とも大親友とも言える先輩が NEREC/NEC
を去り、僕より遥かに会社への忠誠心が高いと思われた優秀な技術者であり、同期の主任であった仲間が NEREC を去った。高い専門知識を持った優秀な後輩も去った。
そういった人の中には僕と同じように独立した人もいるし、他の企業で実力を発揮している人もいる。 本当に NEREC は生え抜きの人材を適切に処遇できなかったが故に、もったいないことをしたものだと思う。
■ NEC の新入社員抑制政策が NEREC の衰退を後押し
更に悪いことに、平成不況に差し掛かった頃、NEC は新入社員の入社を抑制し始めた。そして、そのポリシーを子会社の NEREC にも適用したのだ。
しかし NEREC の取扱い製品は民製品ではなく防衛関連がほとんどを占めているので、世間が不況になったからと言って、それに連動して仕事が減る訳ではない。
仕事量の変化というのは極めて緩やかで遅い。
つまり、仕事の量はそれほど変わらないにもかかわらず、優秀な人が退職する一方で新入社員は入ってこないという明らかに戦力不足の状態に陥り、更に優秀な人の退職を招くという悪循環に陥っていった。
しかも、役員や管理職のポジションはというと、NEC 退職間近の社員が NEREC へ雪崩れこんでくる。 即ち、NEREC 社員の平均年齢が異常なペースで高くなっっていったのだ。 これにより、NEREC の人件費は上昇する一方で生産性はどんどん下がって行ったのだ。
結局、本来、一番活躍しなければならない生え抜きの中堅社員は冷遇され部下もほとんどいないような状況となった。当然、あちこちで問題が生じ、NEREC 社内や NEC との間で軋み音が大きくなっていった。
それにしても、NEC は何故もっと木目細かく NEREC に適した新入社員雇用ポリシーを取らなかったのか? 何故 NEREC の経営サイドは
NEREC に適した新入社員雇用ポリシーが必要であることを NEC に理解させることが出来なかったのか? 理解に苦しむ。
■ 無力感そして NEREC を退社
私は当時 NEC に長期にわたり出向していたため、事実上 NEC の人間になってしまっていたが、それでも NEREC の中堅社員の一人であることには違いなかった。
いずれ NEREC に戻ることが前提である以上、NEREC の将来に無神経ではいられなかった。 だから、ある時、NEREC の上司に上記の問題を含む NEREC の問題点の指摘ならびに改善要求を行った。 しかし、NEREC の上司から返ってきた答えに愕然とした。「君の言うとおりだよ。でも、改善は難しい」 と、いうようなものだった。 正直と言えば正直な返答だったのかもしれない。
かつて、私が NEREC に入社した頃のだったら、そういう回答が返ってくることはなかっただろう。 10年近い間に NEREC という会社はずいぶん変わってしまったようだ。
かつての NEREC で技術開発を本格的に行うと言った高尚な目標は失われ、分身会社としての対等性が失われ、NEC から送り込まれるの定年間際の社員により昇進はブロックされ、更に持ち込まれた大企業病が蔓延し、活気ある若者も見られない。 優秀な社員も次々退社し、NEREC で技術開発を本格的に行うという構想は人的側面から不可能と考えざるを得ないような状況にまでなっていた。
さらに、人事評価制度は崩壊状態にあり、社員の能力や功績を正しく評価できる上司もいない有様であるということも明らかになっていた。 だから、能力や功績があるにもかかわらず昇進や昇給はしない一方で、仕事の出来ないダメ社員にも給与を垂れ流しで払い続けているような状態で、それでは、優秀な人が退社し、平均以下の人だけが会社に残るようなことになる。
当時、私は NEREC では他を大きく引き離す語学力を誇っていたし、約5千人が働く NEC の府中事業場全体で見ても最高レベルの一握りの英語の達人が集う研修に参加するレベルにあった。しかし、 NEREC に於いて、私を評価する立場にある上司が、自分で言うのも何だが、その凄さを全く理解できず、逆に「出る杭は打たれる」ようなありさまだった。
何れにしても、私は NEREC に将来は無いと悟った訳だ。 そして、他の退職理由(※)も手伝い、私は NEREC および出向先の NEC を辞める決心をしたのだ。
※ 退職理由は他にも沢山あった。例えば、出向先の NEC の労務管理上の問題(3日3晩ぶっ続けで仕事をしなければならないような状況に追い込まれ過労死寸前の状態になった)等の後ろ向きのものもあれば、独立して自分の夢をかなえたいという前向きのものまで様々である。
■ NEREC 退社後 NEREC にとどめが刺される
私が NEREC を退社してから間もなく、NEREC がその看板を降ろすことになる事件が発生する。 それが、俗に言う「防衛庁水増請求事件」(防衛庁巨額背任事件とも言う)である。
この事件は、ここで話題としている NEREC をはじめ、NEC 本体やその他の NEC 子会社にまたがる西暦1998年、和暦平成10年の夏から秋にかけて次第に明らかになっていった「国民の血税を官民が結託して無駄使いする壮大なシステム」と「防衛庁職員の賄賂の受け取りによる背任行為」を中核とする様々な問題を内包する事件、つまり、切り口によって色々な事件性や問題が見えてくる複雑な事件である。
防衛庁水増請求事件と呼ばれるのは、NECグループが50億円に上る水増し請求を行い、国家に多大な損害を与えた(後に NEC は損害分を返還)からであるが、上記のように問題は単純ではない。
そして、この事件は、当時 NEC の天皇であった関本会長など幹部をそのイスから引きずり下ろすトリガーとなった。トリガーと言ったのは、私はこの事件が生じる前から関本体制の行き詰まりを予見しており、いつ大地震が発生しても不思議ではなかったところに本事件が発生し、関本体制が崩壊したからである。
さて、当事件で NEREC は水増請求分を国庫に返還し儲けが吹っ飛んだばかりではなく、多くの対策費が発生、更に、親会社の NEC が受注も取りづらくなり、それは、いくいくは
NEREC の仕事を減少させることとなる。 社会的な信用も失った。 かなりの損失だ。 しかも、同事件の対象は NEREC だけではなく、NEC
本体や他の子会社や関連会社にもまたがる大規模なものだった。 NEC グループ全体で見たらもの凄い損失になるだろう。
結局、NEC は、泥が付いた NEREC やその他の事件に関連する子会社や関連会社の看板を下ろし、それらの会社を整理統合し、新しい看板であるNECネットワーク・センサ株式会社として再出発することとしたのである。
NEREC は新しく出来たNECネットワーク・センサの一部として引き継がれたと見ることもできるだろう。 しかし、NEREC の看板は NEC
の恥部として永久に降ろされ封印されたことに異論を唱える人はいないだろう。
※ NECネットワーク・センサ(株)は、西暦2000年、和暦平成12年の7月1日に NEREC すなわち日本電気電波機器エンジニア リング(株)を吸収合併した形にはなっているが、これは形の上の話で、そもそも最初から
NEREC ありきだったと考えるのが自然である。NECネットワーク・センサ(株)は、西暦1998年、和暦平成10年の夏から秋にかけて発覚していった一連の不祥事の対策(平たく言えば看板かけかえのための受け皿会社)として、翌年の西暦1999年、和暦平成11年に設立され、事件の主役の1社である当時
NEC の子会社だったニコー電子をNECネットワーク・センサ(株)が吸収する形で合併。更にその翌年の西暦2000年、和暦平成12年の7月1日に
NEREC すなわち日本電気電波機器エンジニア リング(株)を吸収合併した。尚、事件の主役の1社であった東洋通信機についてはNECが株を手放しエプソンの子会社であるエプソントヨコムになった。
■ 忘れてはならない天下り問題
間接的にではあるが、NEREC の消滅に貢献した要素に「天下り問題」がある。 NEC や NEREC に限ったことでは無いが、民間企業が防衛関連の受注を有利に進める上での必須事項とも言えるのが「天下りの受け入れ」である。
労働対価ではないお金が天下してきた人に支払われる訳だが、その人件費は決して少なくない。それを工面するため、NEC や NEREC などの民間企業は水増請求をせざるを得ないとも言える。
天下による問題は単に人件費だけの問題にとどまらない。 決して高いとは言えない賃金で連日連夜働いている民間企業の従業員の中に、仕事をしないばかりか、たまに登社したかと思うとくだらない質問で仕事の足を引っ張るような無能有害な天下りが入る訳である。
それは民間企業の従業員のやる気に少なからず悪い影響やストレスを与える。天下り先の文化を破壊し、モラルや公平さの概念を破壊する。天下りは公然の不正であり犯罪行為だと思う。
天下り年齢に近づいてきた防衛庁職員を父親に持つ人と親しかったため、私は、天下りする側の心境も良くわかる。天下り年齢に近づいてきた防衛庁職員は、どううまく天下りするかが最大のテーマであり、本来の任務そっちのけで自分の進路の開拓に勤しむ。その間も、その職員には公務員給与が国民の税金から支払われている訳で、これを大きな無駄と言わず何と言うか。
とにかく天下りは百害あって一利なしである。早期に防衛庁職員が天下りをしなくても良いシステムとし、天下りを全面的に禁止すべきである。
■ まとめ
消滅した会社 NEREC から学べることをまとめると、
(1) 社長の人徳と心配りが会社を左右する
(2) 子会社にご都合主義で親会社で不要となった人材を送ってはならない
(3) 新入社員の雇用を長期間停止してはならない
(4) 優秀な人材が辞めることのないよう処遇しなければならない
(5) 改善への取組を情熱を持って行わなければならない
(6) 不正に対してセンシティブでなければならない
その他の筆者記事: 企業経営 - 備忘録
私の企業経営状況など (短信)
○ 平成19年8月に福岡オフィスを福岡市から北九州市に移転しました。 北九州市のオフィスは門司港駅より徒歩圏内にあります。 福岡市のオフィスは賃貸でしたが、北九州市のオフィスは私が所有する不動産での運用であるため賃貸コストがかからなくなり、固定費の圧縮に成功と言ったところでしょうか。
北九州市のオフィスは 「翻訳会社ソリュテック福岡翻訳センター北九州門司オフィス」 でご紹介しています。
○ 平成20年8月に新会社設立しました。 最初に設立した株式会社ソリュテックは、技術オリエンテッドな会社であったのですが、会社を運営していくうちに翻訳会社になってしまいました(汗;)
しかし、インターネットの世界では、翻訳会社であれば、社名に「翻訳」という文字が入った方が有利だということに気が付き、新たに、翻訳会社として「翻訳サービス合同会社」というのを立ち上げました。 細かい話になりますが、これで経費も若干節減できます。
○ 平成20年9月のリーマンショック以降の世界同時不況で、ご多分に漏れず私の会社でも受注が激減し、平成20年の年末あたりは年が越せないのではないかと思いましたが、急遽、かつての得意分野だった戸籍謄本の翻訳にまで拡大し、ここのところ法人顧客がメインであった間口を個人顧客にまで再び広げることで受注量を拡大させ、無事、この不況を乗り切ることができました。
もうすぐリーマンショック発生から1年になりますが、戸籍謄本の翻訳では、現在、日本語から英語への翻訳でダントツのトップシェアと言って良い状態になっております。 戸籍謄本の翻訳については専門サイト「戸籍謄本の翻訳革命・謄本翻訳プロジェクト」も立ち上げましたので、ご用とお急ぎでない方は見てやってください。
PS. この戸籍謄本の翻訳というのは、手間がかかる割には利益は少なく、量をこなすことで成り立っているような感じですので、毎日大忙しといったところであり、知人友人その他諸々の方にはご無沙汰してしまい、誠に申し訳ございません。
○ 同じく不況対策で北九州市のオフィスを一旦クローズし、私は戦略上有利な東京オフィスで、そして福岡のメンバーはインターネット上で勤務する形態に移行しました。
○ 平成21年1月に通帳翻訳を定番サービスに追加しました。 これは、英国ビザを申請する際にプロの手による通帳翻訳が必要になったため市場が拡大し、それに併せて翻訳会社ソリュテックでも力を入れることにしたものです。
通帳翻訳については、専門サイト 「通帳翻訳―ワーホリなどでの英国渡航ビザ申請に適する通帳の翻訳」 をご参照ください。
○ NEREC/NEC を退社して 10年以上経つのに、今だに当時の夢をよく見る。 まあ、ストーリーはかなり変(府中事業場の中に他の会社の大きなビルが建ってたり)だったりしますが・・・。
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